トピックス

バッチ勉強会便り

バッチ勉強会便り(第24号)

2018年9月4日の勉強会は、甚大な被害をもたらした超大型台風21号が上陸した日でした。

ここ金沢は、結果的には大きな影響を受けずに済んだものの、午後からの外出は控えるよう注意勧告が出ていたり、徐々に強くなっていく風に不安もあおられる一日でした。
そんな中、開催時間が午前中だった勉強会は、無事かつ楽しく終了できました。


この日は「なんじ自身を癒せ」第5章の読書会。

どの章も、それぞれに重いのですが、第5章はその中でも特に重い、いや重く受け止めるべき章ですね。。。


親の在り方、子供への関わり方、、、

親の役割は、神聖な奉仕、犠牲的行為ゆえ、子供にどんな見返りも求めるものではないということ、、、

優しい愛と保護と導きを与えること、ただ与えることだけが目的のすべてで、かつ、
過干渉や束縛や押し付けに陥ることなく、
子供が、本当の自分自身である魂の声にのみ従って成長できるよう、
独立心と、個性と、自由を、教え励ます存在であるべきこと、、、


親としての自分がとってきた行動を振り返ったり、
子供としての自分と親の関係を見つめてみたり、
他人だからこそ見える親の害を反面教師として考えてみたり、、、

反省、自戒、葛藤、疑問、疑念、後悔、誓い、希望、等々、いろいろな思いが言葉を得て、表現されていきました。

今こうして書くことで、その時その場の空気ごと思い起こすと、
表現とは、まさしく「表に現れる」ということなんだという圧倒されるような感覚と、
そこには、「表に現れる」ことが許された数々の「思い」達の喜びがある、と今ひしひしと感じています。


この感覚、伝わったでしょうか?

ぜひ、共有・体験すべく、いらしてくださいね!


猛烈な台風24号と共に、勉強会便り24号をお届けすることになったのも、単なる偶然ではないかもしれないなぁ、と思いながら、今回は終わります。


バッチ勉強会便り(第23号)

2018年7月3日の勉強会は、レメディ考察、アルファベット順で11番目に当たるエルムから、20番目に当たるミムラスまでの10種類のレメディについてでした。
(5月8日の勉強会が頓挫したため、勉強会便りも飛んで今回が23号です。)

今回も、気づきや発見(というのかな?)多々ありましたね~~~!

ハニーサックルに対する潜在的なイメージが、いい思い出に対してだけ、つまり、悪い思い出に対してもあり得るとは結びついていなかったという気づく例があったり、、、

エルムが登場するのは仕事が関係する場面に限定したイメージを持っていたことに気付く例があったり、、、

逆に、エルム=仕事イメージであった理由を考察していくことで、
エルムの質に、利他的、貢献、という側面が見えてくることで、ラーチとの質の違いが浮き出てきたり、、、

ゲンチアナの考察中に、適応例として出た実例を検討していると、他者から見た評価的視点では確かにゲンチアナに見える例かもしれないけれど、本人的にはスターオブベツレヘムがあって行動上(表現上)ゲンチアナになっていそうだね、という寄り添う視点が開けたり、、、

「どうして年をとるとヘザーになるんだろう?」という愉快な発言からは、そのカテゴリーである「淋しさ」の洞察になり、「斜陽」が感じさせる「さみしさ」「心もとなさ」「不安」など、に発展していきました。

楽しく盛り上がって、あっという間に時間が過ぎた(足りないくらいになった)ひとときでした。


バッチ勉強会便り(第22号)

2018年3月6日の勉強会は、久々の午後開催、セミナールームは輝く日差しに満ちていました。

雪に始まり、雪に追われ、雪に覆われ尽くされた2月も終わり、日差しがどんどん輝きを増し、どんどん雪も融けていき、乾いた地面が顔を出すと、確実な春の訪れを実感し、何というわけではないのですが、喜びとワクワク感が湧いてきます。

そんな気分も手伝ってか、いつにも増して、さらに楽しい気分の勉強会でした。

今回は、レメディ考察の回ですが、昨年までのようにカテゴリー単位で分けるのではなく、アルファベット順に、10種類で区切って見ていく形での第1回目でした。

レメディとしては、アグリモニー、アスペン、ビーチ、セントーリー、セラトー、チェリープラム、チェストナットバッド、チコリー、クレマチス、クラブアップルです。

10種のレメディは、6つのカテゴリーに分かれるので、アルファベット順に進めていくと、あっちへ飛び、こっちへ戻り、という感じにはなりましたが、それをも、なんだか楽しんじゃった気がします。(春の気分かな?)


では、そんなひとときの中、印象に残ったいくつかを、お伝えします。

ビーチ。
う~ん、ビーチって、そのカテゴリー通り、「他人の幸せを気にしすぎ」てるのね~~~!と実感した参加者のお話。
というのは、、、
その人が、ある人物についてビーチになっていて、批判的内容を友達に聞いてもらっていると、その友達から「優しいんだね」と言われたそうです。
「優しい」と言われても、初めは「えっ???」と、意味が分からなかったそうですが、その友達いわく「だって、その人が健康で幸せになれるためのことを言ってるから」。。。
あぁ~ホントだあ~~、ビーチって、「他人の幸せを気にしすぎ」てバランス崩すと、「批判」になっていっちゃうんだ。。。


クラブアップルの苦しみ。
他人からは、「神経質」「潔癖症」で片づけられてしまう行動の裏に、本人自身は「解き放たれたいと切望している苦しみ」がある、という視点について、理解と思いやりのあるあたたかい発言に、とても心が和みました。
そう、クラブアップルは決して好んで神経質にしているのではなく、そうせざるを得ない苦しみの中にいるんですね...
本当は、その状態から脱せられるものであれば、もっと楽に生きられるのだけれど。。。
そうできない。。。
だから、「失意と絶望」のカテゴリーなんですね。。。


チェリープラム。
クライアントさんがチェリープラムを飲んだ時の変化や感想がいくつか話題に上がり、その中に共通するものを探っていくと、、、

チェリープラムが助けになるケースでは、その人にとっての(そう、それは本当に人それぞれで、他人には想像もできないようなこともあります)ストレスが強くかかってくると、理性のコントロールが効かなくなり、行動面あるいは思考面で正常性を失ってしまいます。
その人にとっての処理能力を超えたストレスにさらされて引き起こされる異常性。
一方、その異常性に発展してはいなくても、そうなることに恐れをいだいていることもあります。

チェリープラムを飲んだ結果、行動面での落ち着きや理性の維持を得られたという事例と、チェリープラムを飲んだ時に「楽~になれる」という感想の事例の両方を説明できるチェリープラムの働きかけ方というのは、と考えていくと、ストレスから保護してくれたり、あるいはストレスに対する処理能力を増してくれる、ということなのかなぁ~、、、など、など、、、


クレマチス。
「これ私飲んだことない!クレマチスって楽しそう!どこが悪いの?」の声に大笑い!!!
確かに確かに!
クレマチスを自分の質のひとつに持っている者からすると、プラスの状態でクレマチス全開って、確かに楽しい!!!
そう、ちゃんと現実をお留守にしないでいられる場合は、楽しいだけでなく、想像力を創造力に変換して、現実をより良く、より楽しく生きる力にもなってハッピーなのですが、現実から離れたままになってしまっては、生きる気力すら薄らいでしまいます。
その状態になってしまうようなら、マイナスなクレマチス状態なので、「悪い」んですね。
(補足:どのレメディにも言えることとして、あるレメディ像を示していても、それがプラスの質を発揮している限り、そのレメディを飲む必要はありません。)


と、今回はこんな感じで、キラキラ輝く春の日差しそのもののような勉強会でした。

では、また、ご一緒しましょう!


バッチ勉強会便り(第21号)

今年初めての勉強会は、1月23日、雪状況が心配される中、第一弾の大雪が一度落ち着いて、第二弾の大雪(こんこんと降り続くことになった雪週間)に突入するちょうど直前に、無事開催できました。
(そして、さらにその後に到来した第三弾めの大雪は、当地金沢で37年ぶりの記録的豪雪となったのでした... ホント、久々にすごかったです...)


さて、今回は読書会で、「なんじ自身を癒せ」第8章でした。

昨年までの読書会は、第1章から順に読み進めて、1年の間で第8章まで読み切れるように計画してきましたが、今年からは、勉強会の開催を隔月にしたこととも関連して、章の順番に固執せず、テーマとしてランダムに取り上げていくことにしてみました。
そして、どの章の時も必ず全章を読んだ上で、その時テーマに取り上げた章の意味、他の章とのつながり、を考察しておく、ということを課題とすることにしました。

そして、その初の試みとなった今回の読書会、「なんじ自身を癒せ」第8章をテーマとして取り上げつつも、1章や2章、7章へ5章へと、その関連や意義、前提や定義となっているものを拾いに活発に飛び回り、また8章へ戻りじっくりと読み直す、そんな「動」と「静」のある有意義で楽しいひとときになりました。

8章には、私たちが目指すべき在り方、方向性が、より具体的にかつ哲学的に、述べられています。

明確な指針を得て、励まされる思いになるという声もあれば、一方で難易度の高さに圧倒されるという声もあり、双方共感し合っていると、と、そこへ「私たちの大部分にはもっと地味な役割が与えられています」という文言に気付いて指摘してくれる発言が登場して、皆救われる思いと同時に「そうかそうか、地味な役割でいいんだ!」と笑いを共有したり、、、

楽しかったですね。。。

また、しみじみと「バッチは気づきと学び...」との、思いを表現される声もあり、これは本当に共感をもって共有されるものでした。

バッチがもたらしてくれる「気づき」、、、

バッチそのものを学ぶ、その姿勢、、、

バッチから学ぶもの、、、

レメディを通して学んだもの、、、

バッチに出逢えて、本当に良かった、としみじみ思える幸せ、、、
そして、それを共有できる人達との出逢いと、その幸せ、、、

そんな幸福感がありました。


さて、8章らしく締めくくることにしましょう。

さあ、自分の「魂」の命令だけに従い、環境や他の人達に左右されず、自分が自分の主人となり、正しい舵取りの手を放すことなく、どんな時にも船の操縦を他人に委ねないで、自分の「神性」によって定められた仕事(地味な役割?笑!)を、楽しい気持ちで果たして行こうではありませんか!

では、また次回!


バッチ勉強会便り(第20号)

今回の勉強会便りは、10月24日と11月21日の2回分を合わせて書こうと思っていたのですが、11月中旬から12月いっぱい、とてもとても書き物に取り組むような余裕を持てない状態だったため、とうとう本日、大晦日を迎えてしまいました。

ということで、この2回分の報告というよりは、この2回を含めたこの1年の勉強会を振り返って書いてみたいと思います。


バッチを実践するということは、、、

あるいは、バッチを実践していると、

10月の勉強会のテーマ「バッチを通しての気づき」や、11月のテーマ「バッチ的共感・考察等」に、おのずとたどり着きます。


バッチ博士の哲学に触れながら、思いを馳せながら、
シンプルに自分の心の状態に目を向けて、レメディを選び、
期待や願望を持たずに、レメディに任せて、
その結果をシンプルに、ただ単に、純粋に受け止めると、

ふわっと、空から舞い降りてくるような、

あるいは、パズルのピースがストンとはまるような、

あるいは、ただただ感嘆するような、

そんな、何かに出逢います。。。


「気づき」というと、硬く聞こえるかもしれません。

でも、決して硬くも、難くもない、

ぽっと、胸の中に自然に生まれてくるものがあるんですよ!

自分についての気づきであったり、
レメディへの理解であったり、
バッチ博士の哲学への洞察であったり、、、


そんな経験を共有できたこの1年と参加者の方々に、この場を借りて感謝申し上げます。


今年は、勉強会への参加スタイルを、改善という視点で変更させていただきました。

ご理解と共感をお寄せ下さりありがとうございました。


あら? なんだか、勉強会便りというよりは、挨拶文みたいになってしまいましたね。


まぁ、これも、大晦日ゆえ、ということで。。。


来年もまた、ゆるやかながら、歩みを進めていきたいと思います。


また、一緒に歩いて行きましょう!


2018年が、皆様にとって、素晴らしい年になりますように。。。


バッチ勉強会便り(第19号)

2017年9月19日(火)の勉強会は、今年の読書会の最終回、「なんじ自身を癒せ」第7章と第8章でした。

今回は、難解な気分、重い気分になりました。
というのは、それだけ自分が取り組まなければならないことがたくさん説かれていたからだと思います。

一年前の読書会で、同じようにこの第7章と第8章を読んだ時は、勉強会便り(第6号)にも書いたように、明るく励まされるような気分になったものですが、今回はなんと全く逆の気分、、、

もともとバッチ博士の文章はスラスラとは読みにくいですが、そういう文章表現的な意味ではなく、「良薬は口に苦し」に似た感じの、読みにくさ、とでも言えばいいでしょうか。

でも、そう、まさしく良薬なのです。

しっかり服用したいものです、、、

もし、薬に例えるなら、この第7章、第8章は、処方箋みたいなものかな。
ここに説かれていることの実践が薬。
継続して飲み続け(=実践して)、やがて薬が要らなくなる(=実践を止めるというのではなく、実践という意識が不要になる。そのものになる。)といいのだろうなぁ。。。

この読書会に限らないことだと思いますが、「読む」という行為も鏡になるのだと思いました。

同じ文章を読み返しても、その時の自分の状態によって、感じることが異なる。

逆に、その感じることの違いで、自分の心の状態が見え、はっきりと意識する。


レメディ選びやコンサルテーションとも通じるものがありますね。。。


そして、その結果、飲みたいレメディ、飲むべきレメディが、浮かんできました。。。


さて、今回は、ちょっと脱線のように思われるかもしれませんが、当日の、ある風景写真をご紹介したいと思います。

勉強会の会場である「しいのき迎賓館」を出る時に感じたことをお伝えしたいと思ったからなので、これも勉強会便りの一部になり得るかな?と、思い、、、

毎月、ほぼいつも、同じ時間に、同じ場所、この「しいのき迎賓館」の正面玄関に立つのに、今まで気が付かなかった「風景の見方」というものがあることに、とても感動して画像に収めました。

しいのき迎賓館の正面玄関前は、アーチ状の重厚な柱に囲まれた車寄せになっています。

その玄関側から柱越しに、普通に風景があり、よくここには立っていたのに、こんな風に意識したことが無かった!


アーチ状の柱が額縁で、その向こうに広がる風景が絵画のようにみえる。。。

shiinoki112.jpg

そして、その景色に、ひとことでは言い表せない美しさと、何か訴えてくるものを感じ、自然に足が止まりました。

この日は快晴で、さわやかな風が吹き、空の青さにも夏の青とは違う透明感と光を感じ、木々の緑の中にはすでにほんのり色づき始めたところもまじり、確かな秋を感じつつ、しかしまだまだ白くまぶしいほどに照り返す地面、そこには影とのコントラスト、、、

shiinok333.jpg

季節によって太陽の高度が変わることで、同じ時間でも光の反射や光の入射角度が変わり、影の入り方や長さ(面積)も変わってくる。

shiinoki222.jpg

アーチ状の柱が作るその影と光を反射する地面とのコントラストと調和、風景を遮るアーチ状の建造物と自然の風景との調和、偶然に空間の中に出現した生きた芸術の美しさに感動して、しばらくの間、眺めていました。

そこに在るものは変わらなくても、明るさの違い、光の強さや角度によって変わる見え方と影の落とし方の違い、など視覚的感動と共に考えていたら、これもまた、ある意味宇宙がくれたメタファーのように思えてきました。

ひとりの同じ人間でも、心の状態が異なれば、同じもの(同じ言葉、同じ状況、etc.etc....)に対して、感じる事、見出すこと、見えない事、全て変わってくる。

何に対して何を感じているのだろうか?

何が感じられなくなって、何が見えなくなっているのだろうか?

逆に、そう感じている自分、あるいは、感じなくなっている自分、に気付く。


同じ第7章と第8章であっても、去年と今年の感じるものの大きな違い、そこには、心の状態に大きな違いがあるから、、、

それは何なのか?

それが大切なんだ、、、


と、バッチにつながっていきました。


ということで、今回は勉強会便りの一部にさせていただきました。

ちょうど、10月、11月の勉強会は、今回の勉強会便りの延長線上にもなりそうなテーマです。

皆様といろんなお話が共有できること、楽しみにしております!


バッチ勉強会便り(第18号)

2017年8月14日(月)の勉強会は、レメディ考察の回で、「失意と絶望」のカテゴリーに分類される8種類のレメディと、レスキューレメディについてでした。

今回、一番感じたことは、たびたび共感と共に話題になることではありますが、「やっぱり、バッチ博士の言葉での表現の中にカギがある!」ということです。


ひとりひとり、各レメディからの経験や洞察、気づきを重ねていくことで、各個人の中で、各レメディへの理解が深まり、生きた知識となり、それはまさに生き物のように成長していきます。

ひとりひとりが、それぞれに持つレメディ像は、元々のレメディの質と異なることはなくても、ひとりひとり顔や背格好が違うように、あるいは癖や特徴があるように、少しずつ違いがあるものだということを、あらためて思いました。

バッチ博士の言葉による説明を読み直すというのは、自分の中でレメディの特徴を意識し過ぎていた部分があったり、またその裏では拾いきっていなかった苦しみの質などに、気付ける良い機会だなぁと、しみじみ思いました。


今回、最も印書的だったのは、クラブアップルの説明の中で「本人の心の中に最も大きく占めている事や、絶対に治さなければならないように見える事から解き放たれたいと切望しています」と書かれている部分でした。

この「本人の心の中に最も大きく占めているもの」や「絶対に治さなければならないように見える事」が実はとても些細な事だったりする、という特徴の方が目立ち、本人の苦しみである「この事から解き放たれたいと切望している」ことに、理解や思いやり、共感を持って、このレメディと向き合っていただろうか?

もしかしたら、クラブアップルの苦しみの質に、初めて気が付けたのかもしれない。。。


他には、


オークの中の「希望を捨てたり、努力を惜しんだりせずに、困難に立ち向かう」という部分に、この特徴にだけ固執しない方がいいけれど、やっぱり本質の部分にあるんだよね、と再認識したり、、、

ラーチの「一生懸命何かをやってみようとしない」という部分は、結果的にそういう行動になってしまうことがある、と捉えるべきものであるけれど、その状態を起こしているラーチの心理状態へと思いを巡らせた時、ラーチの苦しみの質に触れたように感じたり、、、

あるいは、

スターオブベツレヘムの「一時的に大変な不幸を生み出すような状況の下でとても苦しんでいる人のためのものです」という表現が、いかにシンプルで短く的確で過不足なく言いまとめられた一文であるかと感嘆したり、、、

スイートチェストナットの「心と体が忍耐の究極の限界を超えると感じて」という表現に、改めて苦しみの大きさとその質に圧倒される感覚を受けたり、、、


などなど。。。


今回は、とても、シンプルに、基本の骨格に目を向けるような、そしてその結果、苦しみの質に思いが至る、そんなひとときでした。


バッチ勉強会便り(第17号)

2017年7月18日(火)の勉強会は、読書会「なんじ自身を癒せ」第6章でした。

読書会は、安心と共感のもとで、思うことを言葉にできる場であり、ぜひ、この「勉強会便り」でも書こう!と思うことは多くありました。

しかし、今回は、医療や一部宗教観にも触れる内容もあり、とてもデリケートな話題もあります。

勉強会の場と異なり、バッチ博士の哲学を理解考察する、という姿勢が共有できていない方もご覧になれるこのページで、単純に活字にしてしまうと、受け止め方によっては医療批判、宗教批判という誤解または不快感を与えかねないこともあり得ると配慮し、今回は、話題に上がった内容を活字にするのではなく、その視点を書きだしてみるにとどめ、バッチ博士の哲学を理解考察しようと思う方だけが自主的に取り組んでいただく形式にしてみます。


≪現代医療の間違い≫とは? どのようなことを言っているのでしょうか?

・病気の捉え方としては?
・病気へのアプローチ法は?
・バッチ博士が「書くのもはばかれるますが、」と表現した、「神と、人と、動物に対する罪」とは?


≪真にあるべき医療の姿≫はどのようなものでしょうか?

≪物質主義の間違い≫とは、どのようなことをいい、その結果は?

≪宗教の教えの解釈の間違い≫を、ごく自然に正しているところがありますね?
→「諸宗教の教えは、正しく読めば、、、、」  それは?


第6章の中で、好きなところ、救われる思いがするところ、ありましたか?


今回私は、次の箇所に救われる思いがしました。

 ・・・人生は、私たちが心に喜びを抱いてこの世を旅し、周囲の人々に対して恩恵となるよう促しているのです。その結果、私たちがこの地上を訪れたことで、もしもほんの少しでも世界が良くなれば、私たちは自分の仕事を成し終えたのです。・・・

この文章の中でも特に、「もしもほんの少しでも」というところが、「ほんの少しでもいいんだ」と言ってくれているようで、「世界が良くなれば」というのも、「世界を変えるほどの大事」でなくても、例えば笑顔が笑顔を呼ぶくらいのことでも、「ほんの少しでも世界が良くなる」ことに関われるんだ、という気になれて、自分も「ほんの少し」なら寄与できるかも!と励まし勇気づけられる思いがしました。


「もしもほんの少しでも」

何か壁に行き当たったような、あるいは、何も見いだせないような思いにかられたとき、自己肯定間が得られない時、

「もしもほんの少しでも」と、心の中でつぶやいてみてください。

心が軽くなります。

そこには、「ほんの少し」以上に、周りへの恩恵となっている自分がいるから!



バッチ勉強会便り(第16号)

2017年6月20日(火)の勉強会は、レメディ考察の回で、今回のカテゴリーは「現実の状況へ無関心な人に」と「淋しさ」でした。

今回は、カテゴリーの意味、そのカテゴリーに分類されている意味などに、より焦点を合わせた考察を共有でき、レメディの質に触れられた思いがします。

「現実の状況へ無関心な人に」へ分類されている7つのレメディ、クレマチス、ハニーサックル、ワイルドローズ、オリーブ、ホワイトチェストナット、マスタード、チェストナットバッド、これらが、どんな形で「現実に無関心」なのでしょうか?

クレマチスが空想にふけったり夢見がちであったりする、その裏には、バッチ博士の言葉で言うと「自分が現在置かれている状況を心から幸せだとは思えず」ということがあるからこそ、と気付くと思わず、ハッとしました。心が現実に焦点を合わせられずにいるため、現実の中に輝きを見出せなくで、楽しい空想に意識が飛んで行ってしまうんだなぁ...

ハニーサックル。 意識の焦点が過去に向かっていて、やはり、現実の輝きが見えない。

ワイルドローズ。 現実を意欲的に能動的に生きようとする姿勢に欠け、改善のためや楽しみを見つけようとする努力もしない、、、諦めの気持ちから、現実への関心をあえて放棄してしまった状態...

オリーブ。 確かに、疲れすぎて、心が疲弊してしまうと、現実の輝きが見えなくなる...

ホワイトチェストナット。 頭の中を不快な想念に占拠されて、現実に焦点を合わせられない。

マスタード。 これって、意外に気付きにくいのかもしれません。
実際には感情に打撃を受けるような事があったわけではないのに、気持ちがどんよりしてしまっている、なんで自分がこんなに憂鬱なんだろう、という場合でも、人というのは「理由があるはずだ。」と思いこんで、マスタードへ思いが行かないこともあるんだなぁということが話題になりました。
理由があるとか理由がないとかにあまりしばられず、心がどんよりしてしまってどうにも拭えない、と感じるときに試してみるのも良いですよ。
マスタードは、視界から消えていた(意識に入って来なくなっていた)現実の輝きに再び気が付かせてくれます。

チェストナットバット。 現実への焦点が合ってない眼鏡をかけているような感じと言えばいいかもしれません。焦点が合ってない眼鏡では、ちゃんと見えません。ちゃんと見えていないものを意識にとどめておくのは困難です。意識に残せなかったことを活用することは出来ません。
チェストナットバットは、現実に起きていることの全体像をきちんと見ることができていないから、経験を生かしたり、教訓を得ることが困難になっている、のでしょう。


色々な考察や検証を試みているときに、たまたま、「現実の喜びに導いてくれる」という表現を使ったところ、参加者の方の心に響き、その結果私自身にも響き返り、こうして今振り返ると、この表現はまさしく、このカテゴリーのレメディ全部が共通に持つ力を示していると言って良いと思います。


「淋しさ」に分類される3つのレメディ、インパチェンス、ヘザー、一体どういうところで「淋しさ」なのだろうか?という考察も、とても楽しかったです。

この3つの状態、質、陥りやすいこと、などを挙げているうちに、この3つに共通するのは「コミュニケーションの障害」だということに気が付きました。

実際に、人格レベルで「さみしい」と思うかどうかではなく、「コミュニケーション面で、ユニティ感覚(一体性の感覚)から離れた、孤立した状態になり得る」という視点を得て、何か充足感のような感覚を共有できました。

今回も楽しく有意義な時間を共有できました!

また、次回を楽しみに!



バッチ勉強会便り(第15号)

2017年5月16日(火)の勉強会は、読書会「なんじ自身を癒せ」第5章でした。

2章ずつ読み進めていくと、第5章と第6章を同じ回で扱うことになるのですが、このふたつの章は、根本は同じとはいえ、それぞれに異なっていてそれぞれに深いテーマです。

昨年この二つを同じ回に扱った時に、第5章と第6章とでは思考の焦点を全く別のものに設定し直して取り組むような感覚を受けたので、今年は一つに絞れるよう、この二つは分けてひとつひとつ扱うべく、今回は第5章のみ、の回としてみました。

そして、結果的に、ひとつの焦点を軸に思考することができて良かったと思えました。


さて、そんな第5章、その存在の意味は何でしょうか?


第1章から以降、「病気の本質は、魂と個性の葛藤である」という真理と、そこから発生することの説明と洞察が展開されてきました。

では、なぜ、どのように、いつから、「魂と個性の葛藤」は生ずるようになるのでしょうか?

「魂と個性の葛藤」、その中の「真の個性の欠如(人格への干渉を許し、その干渉によって「ハイアーセルフ」の命令に従うのが妨げられる状態)」という面に焦点をあて、それはしばしば幼少期から始まる、ということから、この時期に大きく関わる要素である「親と子」「教師と生徒」の正しくあるべき関係性について、第5章は展開していきます。

各人格は各々自分の魂の声にのみ従うべきで、決して他人の人格に干渉してはならず、また各自の姿勢としても他人からの干渉を許してならないという、人と人のあるべき姿という視点では、大人と大人でも、親と子でも、教師と生徒でも、全く同じことが言えます。

しかし、まだまだ人格が未熟で幼い段階の子供に対しては、簡単に操作あるいは強制同様の干渉を起こしかねないことに十分注意と自戒をもってあたらねばならない、ということの大切さが説明されています。

愛に満ちた保護と導きを与えつつも、決して過干渉にならないように、また自分の願望を押し付けるようなことがないように、ということを、子供の個性が「ハイアーセルフ」の命令にのみ従って成長するべきところを邪魔することのないように、という視点で説明されていて、とても納得できます。

本当に、全ての親、親になろうとする人、教師の立場にある人、全ての子供たち、の心に届けたいものです。

また、第5章からは、独立心(依存しないという意味)と自己決定力を発達させて、自覚と自己責任と、ユニティ感覚を有してこその、真の自由、というものも伝わってきます。

そういう意味では、親や教師、または子や生徒という立場に限らず、他の章と同様に、すべての人にとって、自分のために、真の自由を得るための励ましにも導きにもなる章だと思いました。


この章の終盤は、他の人格による支配から自分を解放するための術と姿勢とも言える内容になっています。
他の章でもよく話題になることですが、「分かるけど、、、異論はないけど、、、実行できない~~~、、、」「無理!ムリ!」という率直な感想を笑いと共に共有し、また、考え込みもしました。


≪・・・敵になりそうな人を、スポーツの対戦相手と同じように見る・・・≫という表現が、長く私にはしっくりこなかったのですが(異議を唱えるつもりは毛頭ありませんが)、勉強会後に、思い返していたら、その理由はスポーツで煽られ鍛えさせられる競争心や闘争心や打倒欲というものに対する嫌悪感があったためだという自分に気づきました。

と同時に、相手と戦っているようでも実は自分との闘いが基礎にあり、その成果を競技の場で対戦相手を通して実感する、というのがスポーツの本来の姿、と純粋な視点になって、もう一度この部分を読み返すと、この文章の続きである≪「人生」というゲームの競技仲間として、いやな感じを少しも持たず、もしそういう反対者がいなければ、自分自身の勇気と個性を発達させる機会が失われてしまう、と考えるのです。≫という表現も、素直に受け止められました。

その結果、≪人生のほんとうの勝利は愛と優しさを通して訪れる・・・≫という言葉がとても輝いて見えました。

この言葉を、常に心においておきたいものだと思いました。


何回読んでも、毎回違った発見や気づきがあります。

文章や表現に対して感じたこと、のように思っていても、実はその背景に、自分の中の偏見や思い込み、といった自分の問題が隠れていたりするんですね。。。


では、今回はここで終了します。