トピックス

バッチ勉強会便り

バッチ勉強会便り(第14号)

2017年4月18日のバッチ勉強会は、カテゴリー「内心が不確かな人に」と「人や周囲に敏感すぎて影響されやすい」に分類される10種のレメディについて、でした。

「内心が不確かな人に」の中の、セラトー、スクレランサスは、「あ~いるいる!」だったり「自分もなるなる!」だったり、なんだか身近に見受けられる光景が出てきました(笑)


ところで、唐突,、かつ勉強会中に話題になったわけでもないことですが、この、「内心が不確か」とは、どのように説明すると良いと思われますか?


というのは、この日のもう一つのカテゴリー「人や周囲に敏感すぎて影響されやすい」の方では、このカテゴリーの命名(または視点のまとめ方とでも言うべきか?)から、レメディへの理解のカギを渡されたような感じを受けたことを、今書きながら思い出したためです。


セントーリーもホリーも、アグリモニーもウォルナットも、「人や周囲に敏感すぎて」の結果、「影響され」ているという点は同じで、どのようなことに敏感に反応しているのか、どのような反応の仕方をしているのか、という点が異なるだけ、という視点で眺めてみると、急に俯瞰的な視界に変化して、個々に見ていた時のレメディ像とはまた違った像が見えてくる感じがしました。

言い換えると、横に並べてみていた時はそれぞれに異なった強い個性が目に入りやすかったところが、上から眺めてみると、明らかに同じ面から発生していることが視覚化されるような感じで、各個性よりも、その敏感さだけがひしひしと伝わってくるような、、、と言えばいいかな。。。


と思い返していたら、「内心の不確かさ」をどのように説明すれば、その質をより感じやすいだろうか?と、ふと、思ったので。。。

もちろん、バッチ博士の表現が最もシンプルに言い当てたものだとは思っていますが、それを理解するための説明として、です。
スクレランサスやセラトー、ワイルドオート、は「内心の不確かさ」と感じやすいと思いますが、ゲンチアナ、ゴース、ホーンビーム、をも合わせて、同じ「内心の不確かさ」の質をひしひしと感じられるように説明するとしたら???

と考えていて、まだ、うまくまとまっていませんが、私の中に浮かんできたのは、「自分の中の『神性』に対する確信の不確かさ」あるいは「魂とのつながりの不確かさ」というような表現による説明です。

いかがでしょうか?

こういった視点でも、話し合ってみたいと思います。

今回はここで終了します。



バッチ勉強会便り(第13号)

2017年3月28日(火)の勉強会は、「なんじ自身を癒せ」第3章と第4章の読書会でした。

第3章の読書会を始める前には、恒例ではありますが、3章に書かれている内容から誤解を招かないよう、前置きをします。

第3章では、特定の精神状態が特定の身体症状へ導く、あるいは、身体症状から特定の精神状態が推測できるように解釈しかねない部分がありますが、しかし、バッチ博士は最終的には、身体症状にとらわれずに、「病気に注意を払うよりも、患者さんの人生観や何に苦しんでいるのかだけを考えてください」としていることを忘れずに、十分に認識した上で、読み進めていきましょう、という前置きです。

バッチ博士の事に限りませんが、文章というのは、その一部分だけが切り取られ、文脈や前提や最終的考察などを伴わずに流布されることで、誤った解釈が一人歩きしてしまうことがあります。

特に、バッチ博士がシステムを完成させる前に出版された書物の扱われ方の中には、バッチ博士の遺志を踏みにじる結果に至っている事実もあり、実に悲しく思います。
(あ、少々脱線してしまいました!)


さて、では、第3章。

ここでは、ユニティに反するどのような行動(=欠点)があって、どのようなことに気付き、どのように成長することが望まれているか、ということが述べられています。

そして、このユニティに反する行動や考えを続けていると、言い換えると「ハイアーセルフ」の声に反し続けていると、「魂」と「心」の葛藤が作り出され、その結果が物理的身体に病気として現れます。

病気は、身体に顕現するにまで至った「魂と心の不調和」と言えることになり、その事実を重く謙虚に受け止めるべきなのでしょう。
このことを、第3章の初めの一文「病気と知られているものは、もっと深いところにある不調和の末期症状です。」の中の「末期症状」という表現から、強く衝撃的に感じ取られたという発言があり、なんとなく読み過ごしてしまっていた単語からの強いメッセージを汲み取るような経験を共有させていただきました。

他にも、バッチ博士が使っている意味での「自己愛」と自分がイメージする「自己愛」の差、「内省」をどのようにとらえれば良いか、ユニティの理解について、などに話題が展開していく中で、疑問と確認の作業を共有する場であると、しみじみ思いました。


第4章では、3章で述べた欠点をどのように理解してどのようにすれば克服していけるか、という内容が書かれています。

この部分では、救われる思い、励まされる感じを得られるところもありつつ、実践の困難さも感じることが多いところでもありました。

第3章、第4章の理解のために、あるいはそこから出てきた疑問の答えのために、第2章や第1章へ戻ってみたり、第7章や第8章に触れてみたり、「トゥエルブ・ヒーラーズ(12の癒し手)とその他のレメディ」のページをめくってみたり、とあちこちに飛んでみることで、逆に普遍性に気づかされる思いを受けました。
それは、海を例えにして言うと、表層の波の形は変わっていても、その下の海水は常に変わらず、そして延々とつながっていて分断されることはない、というような感覚、とでも言えばいいでしょうか。

その下に脈々と流れるもの、変わらないもの、がある、そんな感じです。

そして、それが次は第5章という大きな波で現れるんだな、という予感に似た思いを5月の読書会に託して、今回の第3章、第4章の波が引いていった、そんな感じを受けながら、今回の読書会をあとにしました。



バッチ勉強会便り(第12号)

2017年2月21日(火)のバッチ勉強会は、レメディ考察の回で、対象カテゴリーは「不安と恐れをもつ人に」と「他人の幸せを気にしすぎる」についてでした。

レメディ考察の回では、書籍「バッチ博士の遺産」の中の、「トウェルブヒーラーとその他のレメディ」の該当箇所、つまり、バッチ博士の言葉での説明文を音読してから進むのですが、今回は、その言葉に重要なヒントがあることに改めて気が付いたことが印象的でした。

たとえば、、、

ミムラスの説明の中で、
「、、、。日常生活の中で感じる恐れです。、、、」というバッチ博士の表現が、今回ピックアップされました。
何度も読んでいて、確かにこの表現に記憶もあるのだけれど、今まで、この表現に対して明確に意識を向けたことがなく、さらっと通り過ぎていた自分に気が付きました。

日常生活と、非日常的状態とは、どんな違いでしょうか?

日常とは、日々一定の流れの中、ある程度の予測可能な範囲のことを言うのではないでしょうか。

それに対して、非日常とは、全く予想外の突発的事態や、通常の流れを遥かに上回る状況の変化や、予測不可能な状況に見舞われるなど、と表現すれば良いでしょうか。

と考えた時、ミムラスとロックローズの質の差が浮き上がってくるように感じました。

ミムラスで対応できず、ロックローズが必要な心の状態になったとき、逆に、それほど非日常的な状況に追い込まれていたことに気付く、日常生活の中で起きていることとはいえ、起きていることの大きさがどれほど非日常的なレベルであったのかと気付く、という、逆指摘気づきのパターンもあるのだなぁ、と、妙に納得、腑に落ちる経験を共有させていただきました。

一方、今までも、どうとらえたものか?と気になりながら、なんとなくそのまま保留状態だったある一文について、今回話題に上がりながらも、結局「不明&保留」になったものがあります。

バーべインの説明で、「病気になると、普通はあきらめてしまうような事でも何とかしようと長い間もがきます。」と述べられている一文です。

「あきらめてしまうよりはいいんじゃないか?」
「長い間もがく、、、もがく、というのは、良い意味に感じないなぁ。。。」

バッチ博士はどういうことを、言い表したかったのだろう。。。

なんとなく、あともう少しで合点のいく解釈に表現できそうなものを感じながらも、それを具体的に言語化することができず、「保留」で終了となりました。

もちろん、バッチ博士本人に確認できるわけではないので、何か絶対な正解があるわけではないのですが、、、


皆さんなら、この表現をどのように受け取りますか?

シェアできる機会があれば、ぜひお聞かせいただけること、楽しみにしております。

では、今回はここで終了します。



バッチ勉強会便り(第11号)

2017年に入って初めての勉強会は、1月24日(火)、久々の午後の時間帯で、やはり午前の時間帯とは空気が違うものですね。
勉強会は12月はお休みにさせていただいているので、勉強会そのものも久々な気がしました。

さて、今年の第1回目は、読書会「なんじ自身を癒せ」第1章と第2章です。

そして、今年から、課題を設定してみましたが、参加された方はもちろんですが、参加できなくとも自習ツールとして取り組まれた方、いかがでしたか?

事前に「読む」だけでなく、ある目的意識を持って「読む」と、今まで読み流していて気が付かなかったところに引っかかりを覚えたり、しみじみ立ち止まって反芻するかのように読み直し、読み直し、してみたり、ではありませんでしたか?

第1章、参加者の方からも声がありましたが、こうしてみると、やはり原点であり、バッチ博士の洞察による真理であり、出発点でありながら終着点でもある、そんな存在感の章ですね。

≪病気は、その本質上「魂」と「心」との葛藤です。≫


第2章は、第1章で言う「病気の本質」を理解するために、知っておかなければならない5つの基本的な真理について説明されています。

その、5つの基本真理を、ひとつずつ確認するように読んでみてください。しっかり、ゆっくり咀嚼するように。。。

食べ物の咀嚼に例えれば、ゆっくりしっかり咬んで食べることで、飲み込みやすくなったり、味わいが深まったりしますよね。一方、それでも咬み切れなかったり、飲み込みにくかったり、今一つ味が分からなかったり、ということもありますよね。
読書においても正に同じだ、と思いました。
読書会は、ゆっくりしっかり味わう咀嚼によって、その滋味に触れ、共有したり、あるいは、飲み込みにくいところや、感じられない味について話し合うことで、理解を得てさらに咀嚼が進む、という場であると改めて思いました。

その例えで言うと、第2章という料理が持つ滋味に触れた時に感じる一番の香りが「愛」、同時に混ざり合って香っているのが「一体性」や「恵み」と表現されるもの、そんな感じが、今回の勉強会を振り返ってみた今、よみがえってきました。

今回は(今回も?)、かなり抽象的になったかもしれません。
でもこれが、今回自分にとって最もしっくりくる報告書となりました。

では、また、ご一緒できる日を楽しみしております。


バッチ勉強会便り(第10号:ストレスから自分を知ろう)

2016年11月8日、バッチ勉強会のテーマは「ストレスから自分を知ろう」でした。

「ストレス」って何でしょうか?

人は誰でも、「あぁ~ストレス!ストレス!」と言いたくなる時や、「ストレスで云々」と言ったり思ったりすることがありますね。

でもそのストレス、中身は何でしょうか?

「ストレス」と表現するのは簡単で、分かっているような気になってしまいますが、「ストレス」とは「負荷がかかっている」ことを表現しているだけなので、何がストレスになっているのか?に目を向けてこそ、問題解決にも自分発見にもつながります。

具体的にどういうことに対して、どのように感じるから、あるいはどのように反応している自分がいるから、「ストレス」になっているのでしょうか?

ある人にとっては、ものすごいストレスになることでも、別のある人にとっては何のストレスにもならないこともありますね?

という視点で、自分にチェックを入れてみませんか?

自分は何に対してどういう反応をしているのだろうか?

そこには、自分が大切にしている思いがあったり、恐れていることがあったり、過去の経験の影響があったり、自分自身がとらわれているもの(価値観、固定概念、義務感など)があったり、、、

自分自身へのバッチ選びの姿勢と同じですね。
逆に言うと、ここにバッチの視点、つまり38個の自分チェック視点があると、自分整理と自分理解が進みます。

すでにバッチのある暮らしをされているかたは、大きく頷いていらっしゃることでしょう。

バッチの経験のない方、あるいはバッチに興味をお持ちの方には、バッチの存在の質、またはバッチの学びの意味を、いくらかでも感じ取っていただけたでしょうか?

バッチを学んでも、バッチを飲んでも、「あらあら不思議!あっという間にストレス解消!」なんてことにはなりません。

でも、根本解決への一見遠そうながら最短かつ的確な道だと思っています。

歩みの速度は、ひとりひとり、自分に合った自分速度が最適速度。

スピード違反も駐停車禁止もありません。

たまにバックしちゃうことがあってもいいんです。

でも、確実に気が付く時がきます。

ある時ふと振り返ると、そこには、円錐状に頂上を目指す壮大ならせん階段を上ってきたような軌跡が輝いています。

時々、その、らせん階段の手すりにつかまって、階下を覗き込むように見渡すことがあります。

何も変わってないようで、何にも進歩してないように思えていたけど、ああ、ここまで上ってきてたんだなぁ、と、自分自身で思える時があります。

そして、また歩み出せる。。。

時々ずっと座りこんだりもしますが。。。


ね!  経験者は共~感~~でしょ!?

未経験者の方には、ぜひ、経験してほしいなぁ~!


来年の勉強会は、ステップアップ目指します。

皆様のご参加、楽しみにしております。

参加対象者条件のクリア、課題の取り組みなど、ご自身によるご自身のレベルアップ、ぜひ挑戦してみてくださいね!

では、また来年1月からを楽しみに。。。


バッチ勉強会便り(第9号)

2016年10月18日の勉強会は、「がんを考える」でした。

私が現在身を置く自然療法の世界から見る「がん」と、かつて住んでいた一般西洋医学(以下、現代医学とします)の世界から見る「がん」とは、その姿は全く異なるものです。

現代医学の言葉に、「悪性新生物」という表現があります。

これを見るだけで、「悪者」で、「本体とは関係ない異質なもの」、というマインドコントロールされてしまいそうな表現ですね。

でも、「がん」細胞って、元々は、まぎれもなく本体の一部、自分そのものだったわけです。

それが、どうして、なぜ、「がん」化しちゃったのでしょうか?


現代医学の世界でも、自然療法の世界でも、解明されつくしたたった一つの答えと言える機序はありません。
あくまでも、多様な説が存在しています。


多用な説が存在しているとはいえ、現代医学的視点と自然療法的視点というくくりで大きく分けられる、根本的な違いがあります。

現代医学的視点では、「がん」を局所的あるいは細胞的に分析・研究が進められ、排除・攻撃の対象と見ています。

一方、自然療法的視点では、「がん」は全身状態が局所的に顕在化したものとして捉え、決して局所や「がん」化した細胞だけの問題としては考えず、さらには、「がん」化せざるを得なかったのは、本体の細胞を損傷する様々な要素に対抗し治癒にいたるまで頑張るには、または、体内の環境悪化に負けないためには、不死身の強靭な細胞に変身する必要があったからこそ、モンスター化していったという見解もあります。(長くなるので、平易な表現にさせていただいています。)
また別の視点、病気の深さとしての見解から、いかに深い相であるかということについても触れてみました。

参加者のお一人が「悲しきモンスター」と表現してくださいましたが、正にその通りですね!

「悲しきモンスター」は、現代医学では、悪者扱い、対立する存在として攻撃、排除の対象です。

バッチ博士の言葉、「対立すれば傷つくのです。」を思い出します。
本当に、対立して攻撃すると、傷つきます。一見勝っているかに見えても、深手を負います。悲しみを生みます。
戦争と同じです。
本体を一つのユニティにみなして考えるといいのではないでしょうか?
ユニティ全体の調和を目指すのか、それとも、お互いがユニティの一部であり実際には一つであるのに殺しあう手段しか考えないのか?


自然療法の世界では、「がん」化せざるを得ないところまで追い込まれた背景を考えます。
(先にお断りしておきますが、根本背景に迫る治療だから治るんだ、などと軽々しく言うつもりはありません。ここまで追い込まれる背景への考察と理解があるからこそ、むしろ現代医学のように軽々しくは考えられません。また、「がん」に対して限ったことではありませんが、現代医学とは異なり、表面的な症状の消失を治癒の指標にはしないからです。)
その、「がん」化せざるを得なかった背景へのアプローチ、これは一筋縄ではいかないし、あらゆる方向からのサポートを要します。
そして基本は、対立ではなく、むしろ調和。
さらに、環境(体内・体外)の改善、不足しているものの供給。
そして「モンスター君」が「あ、ボクががんばらなくってもいいんだな。ボクはもうお役御免で良さそうだな。」って思えるくらいに、ユニティ全体が良くなれば、「モンスター君」はご隠居さんになって穏やかな余生をまわりのみんなと一緒に過ごせるようになるのです。

もちろん、一朝一夕には無理な話です。
モンスター化するまでには、長く過酷な過程をたどってきたのですから。。。


さて、このようなお話をさせていただいたのは、「がん」の治療法にについて述べるためではありません。
あくまでも「がん」はひとつの例です。

この「悲しきモンスター」君の話が、ユニティそのものへの思いや理解への一助になり、また、ユニティの中で起きている不毛で不要な対立や抗争に気づく視点の一助になればうれしい限りです。

いかがでしょうか?


バッチ勉強会便り(第8号)

2016年9月20日の勉強会は、「生きていることと、死んでいること」をテーマにしてみました。

この、「生きていることと、死んでいること」という表現からは、「生死」という表現からとは異なった視点や洞察へ導かれる感じがしませんか?

私の中で、もう何十年もの間、この「生きていることと、死んでいること」という一つフレーズが頭の中に住み着いたかのようになっていて、まさしくこれが私の主題なのかなと思うほどです。

私の頭の中にこのフレーズが住み着き出したのは、中学だったか高校だったかの国語の教科書中に使用されていた志賀直哉の「城の埼にて」という心境小説に出逢った時からです。

小説中に出てくる正確な表現は、「生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。」なのですが、この部分を読んだ時の、静寂に満ちながらも強烈とも衝撃とも言える印象が、私の頭の中に「生きていることと、死んでいること」という、この二つは切っても切れない一つフレーズとなって、その後ずっと脳裏に生き続けることになりました。


生物学的な視点、状態で言うと、「生きていること」と「死んでいること」は両極であり、雲泥の差です。

しかし、その二つの間に、実は距離はないのです。

よく使われる表現を使えば、生死は常に表裏一体、あるいは、隣り合わせ、というものがありますね?

皆さんはこれをどの程度実感として理解されていますか?


私は、小さい頃から動物が大好きでいつも何らかの生き物を飼っていましたが、それは、とりもなおさず、死を見ることでもありました。

そんな子供時代には、生きていることと死んでいることは愕然とする両極でしかありませんでした。

それなのに、「両極ではなく、それほどに差がない」ってどういうこと?何?何を言っているのだろう?


今思い返してみると、あの時、自分の主題に目覚めさせるべく、宇宙がこっそり仕組んでおいた仕掛けだったのかなあ、と思うほど、以来、「生きていることと、死んでいること」という視点で何かにつけて考えるようになりました。


獣医師として長く臨床現場に関わってきたため、生から死へ移り変わる瞬間に立ち会う経験は数えきれずあります。

生物学的な生と死は、状態で言うと雲泥の差です。

しかし、その二つの間に距離はないのです。

時には、瞬時に置き換わることもあります。

常にギリギリの境界にいて、実は境界をまたぐことすらあります。

その時、生の側とのつながりが切れていない間は、言い換えると、生の側にしっかりと、あるいは「まだ」、碇をおろしていてくれいる間、は、戻って来てくれます。

しかし、生の側とのつながりが切れる(あるいは、解かれる、絶たれる、手放す)と、医学の力では呼び戻せません。

(この感覚を、勉強会では身振り手振りやその他の比喩も合わせて、何とか表現してみましたが、ここに文章化するのは容易ではないので、省略します。)


このような、「生の側」と、生に同居するように存在する「死と呼ばれる側」という感覚は、「生と死」の生物学的側面と、精神的(魂的という方が合っているかな?)側面をつなぐ認識になると思い、お話させていただきました。


そして、では、精神的、あるいは哲学的、または魂的、な視点での、「生きていること」と「死んでいること」を考えてみましょう。

精神的にこそ、「生きていること」と「死んでいること」は、雲泥の差であることに気付き、意識すべきなのではないでしょうか?

しかし、それを知るのは自分自身です。
他人からは、それこそ「それほどに差はないように」見えるかもしれません。

そういう意味では、変な表現かもしれませんが、「死んだまま生きる」ことすら出来るでしょう。

でも、それでいいんでしょうか?


「生きている」とは、何をもって言えるのでしょうか?


自分にとって「生きている意味」とは、何でしょうか?


「生きている」と実感したことは、何だったでしょうか?


「生きていることは」に続いて出てくる言葉は何ですか?


「生きていること」を楽しいと思った経験を思い出してみてください。


「生きていること」を幸せだと思った経験を思い出してください。


「生きていること」を苦しいと思ったことがありますか?


「生きていること」を悲しいと思ったことがありますか?


そして、

「大好きな自分」って、どんな自分でしょうか?


全ての人が、十分に「生きること」ができますように。。。



バッチ勉強会頼り(第7号)

2016年8月23日(火)の勉強会は、レメディ考察の回で、カテゴリー「現実の状況へ無関心な人に」と「淋しさ」に分類されている計10種のレメディについてでした。

「現実の状況へ無関心な人に」というカテゴリーには、クレマチス、ハニーサックル、ワイルドローズ、オリーブ、ホワイトチェストナット、マスタード、チェストナットバット、の7種類が分類されています。

「無関心」というと、「別に、無関心なわけじゃないんだけど。。。」と、レメディに共感しにくいかもしれませんね。
もうちょっと実感しやすい具体的な例のような表現にしてみると、レメディの質が見えてきますよ。
「現実に意識が集中していない」とか、「現実の楽しみや喜びが見えなくなっている」とか「現実に対処する意欲が薄い」とか、、、いかがでしょうか?

関心がない、というよりは、関心を持っていないのと同様な状態、とでも言えばいいでしょうか。

現実に意識の焦点を合わせ、「今このとき」を十分に生きるには?という意欲やエネルギーに乏しい状態とも言えます。

クレマチスでは未来や空想の中に、ハニーサックルでは過去に向かって、エネルギーが流出してしまい、「今このとき」をよりよく楽しんで生きようとするエネルギーに欠けてしまいますね。

ワイルドローズでは、不遇なことがあってもあまり不平をいわないかもしれませんが、それはそれを乗り越える強さからではなく、「今このとき=現実」をよりよく楽しんで生きていくために行動しようとする意欲のエネルギーが乏しいために、行動を起こしたり挑戦しようとすることを放棄してしまっている結果です。

オリーブは、あまりにも疲れ果てていて、エネルギー枯渇状態に陥り、「今このとき=日常」の中に散りばめられたささやかな感動や幸福感や喜びを感じ取るセンサーが作動しなくなってしまい、その結果バッチ博士の表現する「日々の暮らしは、少しも楽しくなく、ただ辛く感じられます。」という状態に陥ってしまうのでしょう。

ホワイトチェストナットは、不快な出来事や想念や心配事に思考回路を乗っ取られ、そのまるで終わりのない思考の回転にエネルギーがつぎ込まれ、現実を楽しむ、あるいは現実に対処すべきことへの意識の方へはエネルギーが流れにくくなってしまっていますね。

マスタードの憂鬱さも、実は,現実に喜びや幸運や楽しみがあるのに見えなくなってしまっている(=現存するその喜びや幸運や楽しみに意識の焦点が合わせられなくなっている)状態に陥っている、ということなのだなぁ、と、自分のレメディ経験からしみじみ思ったことがあります。
特に気分が落ち込む理由もないのに、なぜこんなに暗い気持ちなのかな?というときに、マスタードを摂ってみたら、まるでさっきまでは目の前にグレーのベールが垂れ下がっていたかのように、そしてそのベールを取り払うと目の前にいっぱい喜びや幸福がキラキラ光ってそこに在る(=今ここにある)のが見えてきて、その時、じみじみ実感したことです。

チェストナットバットが「過去の経験から学ばず、同じ過ちを繰り返す」というのは、現実に十分意識の焦点を合わせていないために、自分が「見たこと」あるいは「失敗したこと」を経験としてきちんと消化して自分の学びとして吸収するに至っていない、ということの結果なのではないでしょうか。


さて、「淋しさ」のカテゴリーでは、どんな見方ができるでしょうか?

ウォーターバイオレット、インパチェンス、ヘザー、の三つはまさに三者三様ですね。
そして、はたして、いずれも淋しさを感じるのでしょうか?

もちろんそれは、人それぞれ異なることです。

もし、あえて、共通しやすい表現を考えてみると、「個でいる感じ」でしょうか。

孤独でもなく、孤立でもなく、「個でいる感じ」。

バランスのとれたポジティブな状態では、自分の「個」も他人の「個」も尊重した他者との関わり方が、三者三様それぞれのスタイルで可能でしょう。

ところが、ちょっとバランスを崩すと、「個」ではなく「孤」に陥り、あえて「孤独」を望む傾向になったり、共感しずらさがストレスになったり、あるいは実際の感覚として「淋しさ」を感じることになったり、するんですね。。。

「全体」と調和した存在の「個」でいられるか、「全体」と調和していない「孤」の状態に陥るか、という課題が共通しているのかな、この三つ。。。と、ふと、思いました。


では、今回はこれで終了します。
ということは、今年の「レメディ考察後記」は、これで終了です。
また来年もよろしくお願い申し上げます。

9月、10月、11月、はバッチ視点ながら、バッチ限定ではない内容です。
ご一緒できる方、楽しみにしております。


バッチ勉強会頼り(第6号)

2016年7月26日(火)のバッチ勉強会は、読書会の回、今年の読書会としては最終回となる第7章と第8章でした。

どの章を読んでいても、いつも思うことなのですが、何度も読んでいるのに、読むたび毎回違った刺激を受けて、いつも新鮮です。

今回はヒタヒタ~っと染み入るような、何か満ちわたるような、そんな感覚。

なんでだろう。。。

と、考えながら振り返ると、そうか、第7章と第8章は、明確な指針を示してくれているからだ、、、と思いました。

第6章までは、指摘や解説的な論調の比率が多かったかも。。。

第7章と第8章は、特に8章は、未来を見つめる眼差しで、明確に目指すべき在り方を、具体的に、かつ壮大で、あたたかい波長と共に語りかけているように感じられました。

第8章を読み進みながら、「あ、ここだ!」「これこれ!これポイント!」など、印をつけていたら、それじゃ抜粋にならないよ、ってくらいな文章量になってしまい、逆にそれらをここに引用するわけにいかなくなっちゃいました。。。


、、、なんて言えばいいかのかな。

私たちが最終的に目指すところは、、、


この世、肉体を持つ私たちが実際に物理的に感知し暮らしているこの世界は、決して愛や善意だけで満ちてはいないですよね?


どうしたら、最終的に皆が完全を目指して成長しようとしているだなんて思えるだろうか?ということが世界中で毎日起きている。

平和を願う心の数が増えることによって世界が変わっていくものだと思いたいけど、実態はどうなってる?

人間、知能や技術では進歩(進化)したかもしれないけど、精神は?心は?愛や善意は???


そんな思いにかられること、ありませんか?


でも、人格レベルで意識できる期間内で、この世の全てが(言い換えると全ての人格レベルが)良くなるべきだ、と思うこと自体が、まだまだ浅はかな人格レベルの意識ってことなのかも、、、

一個人が見届けられる人間の歴史なんて、宇宙の時間感覚からすると、ほんの一瞬にすら満たないレベルだもんな。。。

それと、、、
魂は喜びと幸せしか知らないなら、それだけでいいじゃん、それ以上必要ないんだから、なんでわざわざこんな憎悪や恐怖の混迷するこの世を体験しに来るんだ?という思いにかられたこと、ありませんか?

それはもしかしたら、すでに出来ることをやっていても進歩しないから、難易度をあげて挑戦することで、磨きをかける、あるいは、さらに確かなものにする、深める、ということなのかな、、、

言い換えると、「愛と喜び、幸福感」を、もっともっと、大きく深く壮大に発達させるには、「愛や喜び、幸福感」しか存在しない世界に浸っていても鍛えられない、あるいは、バッチ博士の言葉を借りれば「長所を試すどんな必要もない」ことになるから、この世という場を借りて、鍛錬しにやって来るのかな、、、


というように考えてみると、世の中で何が起ころうとも、「跳び箱3段なら飛べるから1段高い4段にされちゃった」くらいな、だから「よし、じゃあ、次は4段飛んでみよう!」くらいに思えるかもしれない、、、今すぐは無理だけど。。。

悪意が元になっている、と思わざるを得ない様々な仕掛けすら、もしかしたら、バッチ博士の言う「場違いなところに置かれた善」ってやつかと考え、「跳び箱1段、また高く飛べるように」用意されたと思ってみれば、第8章の一文「断固として安らぎを保ち、自分の心はいつも穏やかな湖のようで、波がなく、さざ波すら立たず、その静謐さが乱されることはない・・・(略)・・・どんな出来事も、どんな環境も、どんな他の人格も、いかなる状況でも、その湖の表面を波立たせることはできず、どんな苛立ちや、憂鬱や、疑いの感情も起こすことができないところまで、その安らぎの状態を徐々に自分のなかで発達させて・・・」いけるかなぁ???今は出来てませんけど。。。

自分からみると、「悪」に見えるものがあったとして、
もしかしたら、それは「場違いな善」かもしれない、だから、決して裁かない。
そして、「失敗もなく転びもせずに、高峰を極めた人など一人もいません」という言葉を、自分への励ましだけではなく、「悪」に見える人たちへの思いやり、つまり「今は思いっきり失敗しているところなんだなあ。(仮に物質レベルで思いっきり成功していても)」と、思いやれる視点に変換してみるといいんじゃないかな。。。


ふと、60ページの「『真理』を知ることによって、どんなに悲劇的に見えることがこの世で起こっても、それは人間の進化の一時的な段階であるに過ぎず・・・(略)・・・最終的な善を生み出し、完全性に向かわせるための圧力となるよう意図されたある法則が働いているのだという安心が与えられます。」の部分が目に入ってきました。。。そうか。。。そうなんですね。。。。


少〜しだけ、静謐さのかけらに近づけた気になりました。。。錯覚かもしれませんが。。。


来年の読書会も、また楽しみです。

では次回は8/23、レメディ考察の回、ご一緒出来る方、楽しみにしております。



バッチ勉強会頼り(第5号)

2016年6月21日(火)のバッチ勉強会は、レメディ考察の回で、カテゴリー「内心が不確かな人に」と「人や周囲に敏感過ぎて影響されやすい」に分類されるレメディ、合計10種についてでした。

カテゴリー「内心が不確かな人に」には、セラトー、スクレランサス、ゲンチアナ、ゴース、ホーンビーム、ワイルドオート、の6種のレメディが分類されています。

いったいどのように、内心が不確かなのでしょうか?

レメディの意味を考えるとき、なぜこのカテゴリーなのか?をも考えてみると、レメディの質やレメディが伝えようとしていることに近づけるように思います。

「内心の不確かさ」に関わるレメディを見ていると、他のカテゴリーでもそうかもしれませんが特にこのカテゴリーでは、魂の声が聞こえにくくなっているように思います。

ゆえに起こる「不確かさ」。

自分の意思に確信が持てない(=魂の声が聞こえない)ゆえに、他人の意見を聞いて回るセラトー。

自分の進むべき、あるいは進みたい道が分からない(=魂の声が聞こえない)ゆえに、方向性に迷って苦しんだり、やってはみたものの達成感を得られなかったりするワイルドオート。

魂は決して希望を捨てないのだが、その魂の声が聞こえにくくなっているから、容易に落胆してしまうゲンチアナ。

どんな状況でも、生きていられるということは、その人が肉体的に生きるのが許されているということで、それは魂が希望を捨てていないということなのだが、その声が聞こえないがために、希望を持つことすら信じなくなってしまっているゴース。

魂の不変と普遍さ、それは安定感をもたらすものだが、その声が聞こえにくくなっていると、軸を失ったと同じように安定さを失い、結果、振れ動いてしまうのではないか、と思われるスクレランサス。

私たちの「魂」は達成できる仕事しか私たちに与えはしない、のだが、魂とのつながりを意識しないで、人格(肉体的、物質的存在)にのみに意識が向いているから、目の前のことをやり通せるとはとても思えない感覚にとらわれるのではないか、と思われるホーンビーム。

という部分で、魂の声が聞こえにくくなっていることが、表面に出てきているように思えました。


さて、カテゴリー「人や周囲に敏感過ぎて影響されやすい」に移ります。
ここに分類されているレメディは、アグリモニー、セントーリー、ウォルナット、ホリー、の4種です。

この4種は、う~ん、確かに、まさしく、「人や周囲」に「敏感過ぎて」、「影響されやすく」、苦しい思いをしますよね。。。

アグリモニーとセントーリーは、大雑把な言い方をすると、基本的にどちらも「平和主義者」で「とても良い人」ですよね。

でも、無理しているんですよね。。。

アグリモニーさんは、大いに気がかりなことがあろうとも、傷つくことがあったとしても、周りの空気をこわさないように、陽気に快活に、時に冗談に変換してみたり、、、
そんな心の中に他人は気が付かない。
もっと悪いのは、そうやっているうちに、自分自身すら真の問題を見ようとしなくなること。

「アグリモニーさん、あなたの明るさとユーモア、溌剌とした輝き、今は無理をした仮面であっても、本来の自然体でもきっとそうであれる素質があるからこそできることなんだと思います。だから、はやく、気が付いて、楽になって、無理のない自然体での明るさで輝いてほしいな。。。」


セントーリーさんって、絶対この人、悪いことしてませんよね!
「良きこと」しかしてないもん!
でも実は、宇宙はそれだけで良しとはしないのです。

自分を大切にしていますか?
他人にしてあげているのと同じように自分にも優しくしてあげてますか?
自分を守ってあげてますか?
自分を許してあげてますか?

宇宙はもっと厳しいことも言う。

あなたが、「ノー」と言わなかったから、相手は自分の間違いに気が付くことができずに、成長できずにいるかもしれない、と。

あなたが相手の気持ちを先読みして配慮したつもりでも、元々気付ける感覚を持っていない相手にとっては、感謝の対象にはならないどころか、当然事として間違った理解をして、間違った常識を身に付け、成長できないかもしれない、と。

でも、もちろん宇宙はフォローする。

たとえそうでも、それはあなたのせいではなく、どんなことがあろうとも、すべては自分の責任だから、相手が成長できないのはあなたのせいではない。

しかし、あなたが「善行」と思ってしたことが、本当に全てが、真に他人を救うことになっているのか、というのは、見直してみる価値はあるよ、と。


さて、ウォルナットさんとホリーさん、大雑把に言えば、どちらも、あ~影響受け過ぎ!

ウォルナットさん、
外部の意見、出来事、に、ガガ~~~ンと一撃受けて、グラグラグラグラ、、、、
或いは、ざわざわざわ~っと心に引っかかり、フラフラと思いが揺らぐ、、、
ウォルナット飲んで、「外部の影響受け過ぎ」から脱出しましょう!

ホリーさん、
他の人の言動に敏感過ぎて、つまり過敏に反応してしまうからこそ、ムカっとなったり、くっそぉ~~~!となったり、いいなぁ~うらやましい~~と思ったり、絶対仕返ししてやる!とか、絶対何か企んでいる、と思ったり、と日々穏やかならぬ心中に悩まされるわけなんですね。これって、ホント自分が疲れるし、何よりその激しい感情は自分自身を傷つけています。こういう時、特に急激に起きた激しい感情にはホリーを飲むと、びっくりするくらいス~っと楽になりますよ!経験済み・保証付き!!!


ではでは、今回はここで終わりにします。


次回は、2016年7月26日(火)、9:30~読書会、今年の最終回です。
ご一緒できる方、楽しみにしております。