トピックス

バッチ勉強会便り

バッチ勉強会便り(第17号)

2017年7月18日(火)の勉強会は、読書会「なんじ自身を癒せ」第6章でした。

読書会は、安心と共感のもとで、思うことを言葉にできる場であり、ぜひ、この「勉強会便り」でも書こう!と思うことは多くありました。

しかし、今回は、医療や一部宗教観にも触れる内容もあり、とてもデリケートな話題もあります。

勉強会の場と異なり、バッチ博士の哲学を理解考察する、という姿勢が共有できていない方もご覧になれるこのページで、単純に活字にしてしまうと、受け止め方によっては医療批判、宗教批判という誤解または不快感を与えかねないこともあり得ると配慮し、今回は、話題に上がった内容を活字にするのではなく、その視点を書きだしてみるにとどめ、バッチ博士の哲学を理解考察しようと思う方だけが自主的に取り組んでいただく形式にしてみます。


≪現代医療の間違い≫とは? どのようなことを言っているのでしょうか?

・病気の捉え方としては?
・病気へのアプローチ法は?
・バッチ博士が「書くのもはばかれるますが、」と表現した、「神と、人と、動物に対する罪」とは?


≪真にあるべき医療の姿≫はどのようなものでしょうか?

≪物質主義の間違い≫とは、どのようなことをいい、その結果は?

≪宗教の教えの解釈の間違い≫を、ごく自然に正しているところがありますね?
→「諸宗教の教えは、正しく読めば、、、、」  それは?


第6章の中で、好きなところ、救われる思いがするところ、ありましたか?


今回私は、次の箇所に救われる思いがしました。

 ・・・人生は、私たちが心に喜びを抱いてこの世を旅し、周囲の人々に対して恩恵となるよう促しているのです。その結果、私たちがこの地上を訪れたことで、もしもほんの少しでも世界が良くなれば、私たちは自分の仕事を成し終えたのです。・・・

この文章の中でも特に、「もしもほんの少しでも」というところが、「ほんの少しでもいいんだ」と言ってくれているようで、「世界が良くなれば」というのも、「世界を変えるほどの大事」でなくても、例えば笑顔が笑顔を呼ぶくらいのことでも、「ほんの少しでも世界が良くなる」ことに関われるんだ、という気になれて、自分も「ほんの少し」なら寄与できるかも!と励まし勇気づけられる思いがしました。


「もしもほんの少しでも」

何か壁に行き当たったような、あるいは、何も見いだせないような思いにかられたとき、自己肯定間が得られない時、

「もしもほんの少しでも」と、心の中でつぶやいてみてください。

心が軽くなります。

そこには、「ほんの少し」以上に、周りへの恩恵となっている自分がいるから!



バッチ勉強会便り(第16号)

2017年6月20日(火)の勉強会は、レメディ考察の回で、今回のカテゴリーは「現実の状況へ無関心な人に」と「淋しさ」でした。

今回は、カテゴリーの意味、そのカテゴリーに分類されている意味などに、より焦点を合わせた考察を共有でき、レメディの質に触れられた思いがします。

「現実の状況へ無関心な人に」へ分類されている7つのレメディ、クレマチス、ハニーサックル、ワイルドローズ、オリーブ、ホワイトチェストナット、マスタード、チェストナットバッド、これらが、どんな形で「現実に無関心」なのでしょうか?

クレマチスが空想にふけったり夢見がちであったりする、その裏には、バッチ博士の言葉で言うと「自分が現在置かれている状況を心から幸せだとは思えず」ということがあるからこそ、と気付くと思わず、ハッとしました。心が現実に焦点を合わせられずにいるため、現実の中に輝きを見出せなくで、楽しい空想に意識が飛んで行ってしまうんだなぁ...

ハニーサックル。 意識の焦点が過去に向かっていて、やはり、現実の輝きが見えない。

ワイルドローズ。 現実を意欲的に能動的に生きようとする姿勢に欠け、改善のためや楽しみを見つけようとする努力もしない、、、諦めの気持ちから、現実への関心をあえて放棄してしまった状態...

オリーブ。 確かに、疲れすぎて、心が疲弊してしまうと、現実の輝きが見えなくなる...

ホワイトチェストナット。 頭の中を不快な想念に占拠されて、現実に焦点を合わせられない。

マスタード。 これって、意外に気付きにくいのかもしれません。
実際には感情に打撃を受けるような事があったわけではないのに、気持ちがどんよりしてしまっている、なんで自分がこんなに憂鬱なんだろう、という場合でも、人というのは「理由があるはずだ。」と思いこんで、マスタードへ思いが行かないこともあるんだなぁということが話題になりました。
理由があるとか理由がないとかにあまりしばられず、心がどんよりしてしまってどうにも拭えない、と感じるときに試してみるのも良いですよ。
マスタードは、視界から消えていた(意識に入って来なくなっていた)現実の輝きに再び気が付かせてくれます。

チェストナットバット。 現実への焦点が合ってない眼鏡をかけているような感じと言えばいいかもしれません。焦点が合ってない眼鏡では、ちゃんと見えません。ちゃんと見えていないものを意識にとどめておくのは困難です。意識に残せなかったことを活用することは出来ません。
チェストナットバットは、現実に起きていることの全体像をきちんと見ることができていないから、経験を生かしたり、教訓を得ることが困難になっている、のでしょう。


色々な考察や検証を試みているときに、たまたま、「現実の喜びに導いてくれる」という表現を使ったところ、参加者の方の心に響き、その結果私自身にも響き返り、こうして今振り返ると、この表現はまさしく、このカテゴリーのレメディ全部が共通に持つ力を示していると言って良いと思います。


「淋しさ」に分類される3つのレメディ、インパチェンス、ヘザー、一体どういうところで「淋しさ」なのだろうか?という考察も、とても楽しかったです。

この3つの状態、質、陥りやすいこと、などを挙げているうちに、この3つに共通するのは「コミュニケーションの障害」だということに気が付きました。

実際に、人格レベルで「さみしい」と思うかどうかではなく、「コミュニケーション面で、ユニティ感覚(一体性の感覚)から離れた、孤立した状態になり得る」という視点を得て、何か充足感のような感覚を共有できました。

今回も楽しく有意義な時間を共有できました!

また、次回を楽しみに!



バッチ勉強会便り(第15号)

2017年5月16日(火)の勉強会は、読書会「なんじ自身を癒せ」第5章でした。

2章ずつ読み進めていくと、第5章と第6章を同じ回で扱うことになるのですが、このふたつの章は、根本は同じとはいえ、それぞれに異なっていてそれぞれに深いテーマです。

昨年この二つを同じ回に扱った時に、第5章と第6章とでは思考の焦点を全く別のものに設定し直して取り組むような感覚を受けたので、今年は一つに絞れるよう、この二つは分けてひとつひとつ扱うべく、今回は第5章のみ、の回としてみました。

そして、結果的に、ひとつの焦点を軸に思考することができて良かったと思えました。


さて、そんな第5章、その存在の意味は何でしょうか?


第1章から以降、「病気の本質は、魂と個性の葛藤である」という真理と、そこから発生することの説明と洞察が展開されてきました。

では、なぜ、どのように、いつから、「魂と個性の葛藤」は生ずるようになるのでしょうか?

「魂と個性の葛藤」、その中の「真の個性の欠如(人格への干渉を許し、その干渉によって「ハイアーセルフ」の命令に従うのが妨げられる状態)」という面に焦点をあて、それはしばしば幼少期から始まる、ということから、この時期に大きく関わる要素である「親と子」「教師と生徒」の正しくあるべき関係性について、第5章は展開していきます。

各人格は各々自分の魂の声にのみ従うべきで、決して他人の人格に干渉してはならず、また各自の姿勢としても他人からの干渉を許してならないという、人と人のあるべき姿という視点では、大人と大人でも、親と子でも、教師と生徒でも、全く同じことが言えます。

しかし、まだまだ人格が未熟で幼い段階の子供に対しては、簡単に操作あるいは強制同様の干渉を起こしかねないことに十分注意と自戒をもってあたらねばならない、ということの大切さが説明されています。

愛に満ちた保護と導きを与えつつも、決して過干渉にならないように、また自分の願望を押し付けるようなことがないように、ということを、子供の個性が「ハイアーセルフ」の命令にのみ従って成長するべきところを邪魔することのないように、という視点で説明されていて、とても納得できます。

本当に、全ての親、親になろうとする人、教師の立場にある人、全ての子供たち、の心に届けたいものです。

また、第5章からは、独立心(依存しないという意味)と自己決定力を発達させて、自覚と自己責任と、ユニティ感覚を有してこその、真の自由、というものも伝わってきます。

そういう意味では、親や教師、または子や生徒という立場に限らず、他の章と同様に、すべての人にとって、自分のために、真の自由を得るための励ましにも導きにもなる章だと思いました。


この章の終盤は、他の人格による支配から自分を解放するための術と姿勢とも言える内容になっています。
他の章でもよく話題になることですが、「分かるけど、、、異論はないけど、、、実行できない~~~、、、」「無理!ムリ!」という率直な感想を笑いと共に共有し、また、考え込みもしました。


≪・・・敵になりそうな人を、スポーツの対戦相手と同じように見る・・・≫という表現が、長く私にはしっくりこなかったのですが(異議を唱えるつもりは毛頭ありませんが)、勉強会後に、思い返していたら、その理由はスポーツで煽られ鍛えさせられる競争心や闘争心や打倒欲というものに対する嫌悪感があったためだという自分に気づきました。

と同時に、相手と戦っているようでも実は自分との闘いが基礎にあり、その成果を競技の場で対戦相手を通して実感する、というのがスポーツの本来の姿、と純粋な視点になって、もう一度この部分を読み返すと、この文章の続きである≪「人生」というゲームの競技仲間として、いやな感じを少しも持たず、もしそういう反対者がいなければ、自分自身の勇気と個性を発達させる機会が失われてしまう、と考えるのです。≫という表現も、素直に受け止められました。

その結果、≪人生のほんとうの勝利は愛と優しさを通して訪れる・・・≫という言葉がとても輝いて見えました。

この言葉を、常に心においておきたいものだと思いました。


何回読んでも、毎回違った発見や気づきがあります。

文章や表現に対して感じたこと、のように思っていても、実はその背景に、自分の中の偏見や思い込み、といった自分の問題が隠れていたりするんですね。。。


では、今回はここで終了します。


バッチ勉強会便り(第14号)

2017年4月18日のバッチ勉強会は、カテゴリー「内心が不確かな人に」と「人や周囲に敏感すぎて影響されやすい」に分類される10種のレメディについて、でした。

「内心が不確かな人に」の中の、セラトー、スクレランサスは、「あ~いるいる!」だったり「自分もなるなる!」だったり、なんだか身近に見受けられる光景が出てきました(笑)


ところで、唐突,、かつ勉強会中に話題になったわけでもないことですが、この、「内心が不確か」とは、どのように説明すると良いと思われますか?


というのは、この日のもう一つのカテゴリー「人や周囲に敏感すぎて影響されやすい」の方では、このカテゴリーの命名(または視点のまとめ方とでも言うべきか?)から、レメディへの理解のカギを渡されたような感じを受けたことを、今書きながら思い出したためです。


セントーリーもホリーも、アグリモニーもウォルナットも、「人や周囲に敏感すぎて」の結果、「影響され」ているという点は同じで、どのようなことに敏感に反応しているのか、どのような反応の仕方をしているのか、という点が異なるだけ、という視点で眺めてみると、急に俯瞰的な視界に変化して、個々に見ていた時のレメディ像とはまた違った像が見えてくる感じがしました。

言い換えると、横に並べてみていた時はそれぞれに異なった強い個性が目に入りやすかったところが、上から眺めてみると、明らかに同じ面から発生していることが視覚化されるような感じで、各個性よりも、その敏感さだけがひしひしと伝わってくるような、、、と言えばいいかな。。。


と思い返していたら、「内心の不確かさ」をどのように説明すれば、その質をより感じやすいだろうか?と、ふと、思ったので。。。

もちろん、バッチ博士の表現が最もシンプルに言い当てたものだとは思っていますが、それを理解するための説明として、です。
スクレランサスやセラトー、ワイルドオート、は「内心の不確かさ」と感じやすいと思いますが、ゲンチアナ、ゴース、ホーンビーム、をも合わせて、同じ「内心の不確かさ」の質をひしひしと感じられるように説明するとしたら???

と考えていて、まだ、うまくまとまっていませんが、私の中に浮かんできたのは、「自分の中の『神性』に対する確信の不確かさ」あるいは「魂とのつながりの不確かさ」というような表現による説明です。

いかがでしょうか?

こういった視点でも、話し合ってみたいと思います。

今回はここで終了します。



バッチ勉強会便り(第13号)

2017年3月28日(火)の勉強会は、「なんじ自身を癒せ」第3章と第4章の読書会でした。

第3章の読書会を始める前には、恒例ではありますが、3章に書かれている内容から誤解を招かないよう、前置きをします。

第3章では、特定の精神状態が特定の身体症状へ導く、あるいは、身体症状から特定の精神状態が推測できるように解釈しかねない部分がありますが、しかし、バッチ博士は最終的には、身体症状にとらわれずに、「病気に注意を払うよりも、患者さんの人生観や何に苦しんでいるのかだけを考えてください」としていることを忘れずに、十分に認識した上で、読み進めていきましょう、という前置きです。

バッチ博士の事に限りませんが、文章というのは、その一部分だけが切り取られ、文脈や前提や最終的考察などを伴わずに流布されることで、誤った解釈が一人歩きしてしまうことがあります。

特に、バッチ博士がシステムを完成させる前に出版された書物の扱われ方の中には、バッチ博士の遺志を踏みにじる結果に至っている事実もあり、実に悲しく思います。
(あ、少々脱線してしまいました!)


さて、では、第3章。

ここでは、ユニティに反するどのような行動(=欠点)があって、どのようなことに気付き、どのように成長することが望まれているか、ということが述べられています。

そして、このユニティに反する行動や考えを続けていると、言い換えると「ハイアーセルフ」の声に反し続けていると、「魂」と「心」の葛藤が作り出され、その結果が物理的身体に病気として現れます。

病気は、身体に顕現するにまで至った「魂と心の不調和」と言えることになり、その事実を重く謙虚に受け止めるべきなのでしょう。
このことを、第3章の初めの一文「病気と知られているものは、もっと深いところにある不調和の末期症状です。」の中の「末期症状」という表現から、強く衝撃的に感じ取られたという発言があり、なんとなく読み過ごしてしまっていた単語からの強いメッセージを汲み取るような経験を共有させていただきました。

他にも、バッチ博士が使っている意味での「自己愛」と自分がイメージする「自己愛」の差、「内省」をどのようにとらえれば良いか、ユニティの理解について、などに話題が展開していく中で、疑問と確認の作業を共有する場であると、しみじみ思いました。


第4章では、3章で述べた欠点をどのように理解してどのようにすれば克服していけるか、という内容が書かれています。

この部分では、救われる思い、励まされる感じを得られるところもありつつ、実践の困難さも感じることが多いところでもありました。

第3章、第4章の理解のために、あるいはそこから出てきた疑問の答えのために、第2章や第1章へ戻ってみたり、第7章や第8章に触れてみたり、「トゥエルブ・ヒーラーズ(12の癒し手)とその他のレメディ」のページをめくってみたり、とあちこちに飛んでみることで、逆に普遍性に気づかされる思いを受けました。
それは、海を例えにして言うと、表層の波の形は変わっていても、その下の海水は常に変わらず、そして延々とつながっていて分断されることはない、というような感覚、とでも言えばいいでしょうか。

その下に脈々と流れるもの、変わらないもの、がある、そんな感じです。

そして、それが次は第5章という大きな波で現れるんだな、という予感に似た思いを5月の読書会に託して、今回の第3章、第4章の波が引いていった、そんな感じを受けながら、今回の読書会をあとにしました。



バッチ勉強会便り(第12号)

2017年2月21日(火)のバッチ勉強会は、レメディ考察の回で、対象カテゴリーは「不安と恐れをもつ人に」と「他人の幸せを気にしすぎる」についてでした。

レメディ考察の回では、書籍「バッチ博士の遺産」の中の、「トウェルブヒーラーとその他のレメディ」の該当箇所、つまり、バッチ博士の言葉での説明文を音読してから進むのですが、今回は、その言葉に重要なヒントがあることに改めて気が付いたことが印象的でした。

たとえば、、、

ミムラスの説明の中で、
「、、、。日常生活の中で感じる恐れです。、、、」というバッチ博士の表現が、今回ピックアップされました。
何度も読んでいて、確かにこの表現に記憶もあるのだけれど、今まで、この表現に対して明確に意識を向けたことがなく、さらっと通り過ぎていた自分に気が付きました。

日常生活と、非日常的状態とは、どんな違いでしょうか?

日常とは、日々一定の流れの中、ある程度の予測可能な範囲のことを言うのではないでしょうか。

それに対して、非日常とは、全く予想外の突発的事態や、通常の流れを遥かに上回る状況の変化や、予測不可能な状況に見舞われるなど、と表現すれば良いでしょうか。

と考えた時、ミムラスとロックローズの質の差が浮き上がってくるように感じました。

ミムラスで対応できず、ロックローズが必要な心の状態になったとき、逆に、それほど非日常的な状況に追い込まれていたことに気付く、日常生活の中で起きていることとはいえ、起きていることの大きさがどれほど非日常的なレベルであったのかと気付く、という、逆指摘気づきのパターンもあるのだなぁ、と、妙に納得、腑に落ちる経験を共有させていただきました。

一方、今までも、どうとらえたものか?と気になりながら、なんとなくそのまま保留状態だったある一文について、今回話題に上がりながらも、結局「不明&保留」になったものがあります。

バーべインの説明で、「病気になると、普通はあきらめてしまうような事でも何とかしようと長い間もがきます。」と述べられている一文です。

「あきらめてしまうよりはいいんじゃないか?」
「長い間もがく、、、もがく、というのは、良い意味に感じないなぁ。。。」

バッチ博士はどういうことを、言い表したかったのだろう。。。

なんとなく、あともう少しで合点のいく解釈に表現できそうなものを感じながらも、それを具体的に言語化することができず、「保留」で終了となりました。

もちろん、バッチ博士本人に確認できるわけではないので、何か絶対な正解があるわけではないのですが、、、


皆さんなら、この表現をどのように受け取りますか?

シェアできる機会があれば、ぜひお聞かせいただけること、楽しみにしております。

では、今回はここで終了します。



バッチ勉強会便り(第11号)

2017年に入って初めての勉強会は、1月24日(火)、久々の午後の時間帯で、やはり午前の時間帯とは空気が違うものですね。
勉強会は12月はお休みにさせていただいているので、勉強会そのものも久々な気がしました。

さて、今年の第1回目は、読書会「なんじ自身を癒せ」第1章と第2章です。

そして、今年から、課題を設定してみましたが、参加された方はもちろんですが、参加できなくとも自習ツールとして取り組まれた方、いかがでしたか?

事前に「読む」だけでなく、ある目的意識を持って「読む」と、今まで読み流していて気が付かなかったところに引っかかりを覚えたり、しみじみ立ち止まって反芻するかのように読み直し、読み直し、してみたり、ではありませんでしたか?

第1章、参加者の方からも声がありましたが、こうしてみると、やはり原点であり、バッチ博士の洞察による真理であり、出発点でありながら終着点でもある、そんな存在感の章ですね。

≪病気は、その本質上「魂」と「心」との葛藤です。≫


第2章は、第1章で言う「病気の本質」を理解するために、知っておかなければならない5つの基本的な真理について説明されています。

その、5つの基本真理を、ひとつずつ確認するように読んでみてください。しっかり、ゆっくり咀嚼するように。。。

食べ物の咀嚼に例えれば、ゆっくりしっかり咬んで食べることで、飲み込みやすくなったり、味わいが深まったりしますよね。一方、それでも咬み切れなかったり、飲み込みにくかったり、今一つ味が分からなかったり、ということもありますよね。
読書においても正に同じだ、と思いました。
読書会は、ゆっくりしっかり味わう咀嚼によって、その滋味に触れ、共有したり、あるいは、飲み込みにくいところや、感じられない味について話し合うことで、理解を得てさらに咀嚼が進む、という場であると改めて思いました。

その例えで言うと、第2章という料理が持つ滋味に触れた時に感じる一番の香りが「愛」、同時に混ざり合って香っているのが「一体性」や「恵み」と表現されるもの、そんな感じが、今回の勉強会を振り返ってみた今、よみがえってきました。

今回は(今回も?)、かなり抽象的になったかもしれません。
でもこれが、今回自分にとって最もしっくりくる報告書となりました。

では、また、ご一緒できる日を楽しみしております。


バッチ勉強会便り(第10号:ストレスから自分を知ろう)

2016年11月8日、バッチ勉強会のテーマは「ストレスから自分を知ろう」でした。

「ストレス」って何でしょうか?

人は誰でも、「あぁ~ストレス!ストレス!」と言いたくなる時や、「ストレスで云々」と言ったり思ったりすることがありますね。

でもそのストレス、中身は何でしょうか?

「ストレス」と表現するのは簡単で、分かっているような気になってしまいますが、「ストレス」とは「負荷がかかっている」ことを表現しているだけなので、何がストレスになっているのか?に目を向けてこそ、問題解決にも自分発見にもつながります。

具体的にどういうことに対して、どのように感じるから、あるいはどのように反応している自分がいるから、「ストレス」になっているのでしょうか?

ある人にとっては、ものすごいストレスになることでも、別のある人にとっては何のストレスにもならないこともありますね?

という視点で、自分にチェックを入れてみませんか?

自分は何に対してどういう反応をしているのだろうか?

そこには、自分が大切にしている思いがあったり、恐れていることがあったり、過去の経験の影響があったり、自分自身がとらわれているもの(価値観、固定概念、義務感など)があったり、、、

自分自身へのバッチ選びの姿勢と同じですね。
逆に言うと、ここにバッチの視点、つまり38個の自分チェック視点があると、自分整理と自分理解が進みます。

すでにバッチのある暮らしをされているかたは、大きく頷いていらっしゃることでしょう。

バッチの経験のない方、あるいはバッチに興味をお持ちの方には、バッチの存在の質、またはバッチの学びの意味を、いくらかでも感じ取っていただけたでしょうか?

バッチを学んでも、バッチを飲んでも、「あらあら不思議!あっという間にストレス解消!」なんてことにはなりません。

でも、根本解決への一見遠そうながら最短かつ的確な道だと思っています。

歩みの速度は、ひとりひとり、自分に合った自分速度が最適速度。

スピード違反も駐停車禁止もありません。

たまにバックしちゃうことがあってもいいんです。

でも、確実に気が付く時がきます。

ある時ふと振り返ると、そこには、円錐状に頂上を目指す壮大ならせん階段を上ってきたような軌跡が輝いています。

時々、その、らせん階段の手すりにつかまって、階下を覗き込むように見渡すことがあります。

何も変わってないようで、何にも進歩してないように思えていたけど、ああ、ここまで上ってきてたんだなぁ、と、自分自身で思える時があります。

そして、また歩み出せる。。。

時々ずっと座りこんだりもしますが。。。


ね!  経験者は共~感~~でしょ!?

未経験者の方には、ぜひ、経験してほしいなぁ~!


来年の勉強会は、ステップアップ目指します。

皆様のご参加、楽しみにしております。

参加対象者条件のクリア、課題の取り組みなど、ご自身によるご自身のレベルアップ、ぜひ挑戦してみてくださいね!

では、また来年1月からを楽しみに。。。


バッチ勉強会便り(第9号)

2016年10月18日の勉強会は、「がんを考える」でした。

私が現在身を置く自然療法の世界から見る「がん」と、かつて住んでいた一般西洋医学(以下、現代医学とします)の世界から見る「がん」とは、その姿は全く異なるものです。

現代医学の言葉に、「悪性新生物」という表現があります。

これを見るだけで、「悪者」で、「本体とは関係ない異質なもの」、というマインドコントロールされてしまいそうな表現ですね。

でも、「がん」細胞って、元々は、まぎれもなく本体の一部、自分そのものだったわけです。

それが、どうして、なぜ、「がん」化しちゃったのでしょうか?


現代医学の世界でも、自然療法の世界でも、解明されつくしたたった一つの答えと言える機序はありません。
あくまでも、多様な説が存在しています。


多用な説が存在しているとはいえ、現代医学的視点と自然療法的視点というくくりで大きく分けられる、根本的な違いがあります。

現代医学的視点では、「がん」を局所的あるいは細胞的に分析・研究が進められ、排除・攻撃の対象と見ています。

一方、自然療法的視点では、「がん」は全身状態が局所的に顕在化したものとして捉え、決して局所や「がん」化した細胞だけの問題としては考えず、さらには、「がん」化せざるを得なかったのは、本体の細胞を損傷する様々な要素に対抗し治癒にいたるまで頑張るには、または、体内の環境悪化に負けないためには、不死身の強靭な細胞に変身する必要があったからこそ、モンスター化していったという見解もあります。(長くなるので、平易な表現にさせていただいています。)
また別の視点、病気の深さとしての見解から、いかに深い相であるかということについても触れてみました。

参加者のお一人が「悲しきモンスター」と表現してくださいましたが、正にその通りですね!

「悲しきモンスター」は、現代医学では、悪者扱い、対立する存在として攻撃、排除の対象です。

バッチ博士の言葉、「対立すれば傷つくのです。」を思い出します。
本当に、対立して攻撃すると、傷つきます。一見勝っているかに見えても、深手を負います。悲しみを生みます。
戦争と同じです。
本体を一つのユニティにみなして考えるといいのではないでしょうか?
ユニティ全体の調和を目指すのか、それとも、お互いがユニティの一部であり実際には一つであるのに殺しあう手段しか考えないのか?


自然療法の世界では、「がん」化せざるを得ないところまで追い込まれた背景を考えます。
(先にお断りしておきますが、根本背景に迫る治療だから治るんだ、などと軽々しく言うつもりはありません。ここまで追い込まれる背景への考察と理解があるからこそ、むしろ現代医学のように軽々しくは考えられません。また、「がん」に対して限ったことではありませんが、現代医学とは異なり、表面的な症状の消失を治癒の指標にはしないからです。)
その、「がん」化せざるを得なかった背景へのアプローチ、これは一筋縄ではいかないし、あらゆる方向からのサポートを要します。
そして基本は、対立ではなく、むしろ調和。
さらに、環境(体内・体外)の改善、不足しているものの供給。
そして「モンスター君」が「あ、ボクががんばらなくってもいいんだな。ボクはもうお役御免で良さそうだな。」って思えるくらいに、ユニティ全体が良くなれば、「モンスター君」はご隠居さんになって穏やかな余生をまわりのみんなと一緒に過ごせるようになるのです。

もちろん、一朝一夕には無理な話です。
モンスター化するまでには、長く過酷な過程をたどってきたのですから。。。


さて、このようなお話をさせていただいたのは、「がん」の治療法にについて述べるためではありません。
あくまでも「がん」はひとつの例です。

この「悲しきモンスター」君の話が、ユニティそのものへの思いや理解への一助になり、また、ユニティの中で起きている不毛で不要な対立や抗争に気づく視点の一助になればうれしい限りです。

いかがでしょうか?


バッチ勉強会便り(第8号)

2016年9月20日の勉強会は、「生きていることと、死んでいること」をテーマにしてみました。

この、「生きていることと、死んでいること」という表現からは、「生死」という表現からとは異なった視点や洞察へ導かれる感じがしませんか?

私の中で、もう何十年もの間、この「生きていることと、死んでいること」という一つフレーズが頭の中に住み着いたかのようになっていて、まさしくこれが私の主題なのかなと思うほどです。

私の頭の中にこのフレーズが住み着き出したのは、中学だったか高校だったかの国語の教科書中に使用されていた志賀直哉の「城の埼にて」という心境小説に出逢った時からです。

小説中に出てくる正確な表現は、「生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。」なのですが、この部分を読んだ時の、静寂に満ちながらも強烈とも衝撃とも言える印象が、私の頭の中に「生きていることと、死んでいること」という、この二つは切っても切れない一つフレーズとなって、その後ずっと脳裏に生き続けることになりました。


生物学的な視点、状態で言うと、「生きていること」と「死んでいること」は両極であり、雲泥の差です。

しかし、その二つの間に、実は距離はないのです。

よく使われる表現を使えば、生死は常に表裏一体、あるいは、隣り合わせ、というものがありますね?

皆さんはこれをどの程度実感として理解されていますか?


私は、小さい頃から動物が大好きでいつも何らかの生き物を飼っていましたが、それは、とりもなおさず、死を見ることでもありました。

そんな子供時代には、生きていることと死んでいることは愕然とする両極でしかありませんでした。

それなのに、「両極ではなく、それほどに差がない」ってどういうこと?何?何を言っているのだろう?


今思い返してみると、あの時、自分の主題に目覚めさせるべく、宇宙がこっそり仕組んでおいた仕掛けだったのかなあ、と思うほど、以来、「生きていることと、死んでいること」という視点で何かにつけて考えるようになりました。


獣医師として長く臨床現場に関わってきたため、生から死へ移り変わる瞬間に立ち会う経験は数えきれずあります。

生物学的な生と死は、状態で言うと雲泥の差です。

しかし、その二つの間に距離はないのです。

時には、瞬時に置き換わることもあります。

常にギリギリの境界にいて、実は境界をまたぐことすらあります。

その時、生の側とのつながりが切れていない間は、言い換えると、生の側にしっかりと、あるいは「まだ」、碇をおろしていてくれいる間、は、戻って来てくれます。

しかし、生の側とのつながりが切れる(あるいは、解かれる、絶たれる、手放す)と、医学の力では呼び戻せません。

(この感覚を、勉強会では身振り手振りやその他の比喩も合わせて、何とか表現してみましたが、ここに文章化するのは容易ではないので、省略します。)


このような、「生の側」と、生に同居するように存在する「死と呼ばれる側」という感覚は、「生と死」の生物学的側面と、精神的(魂的という方が合っているかな?)側面をつなぐ認識になると思い、お話させていただきました。


そして、では、精神的、あるいは哲学的、または魂的、な視点での、「生きていること」と「死んでいること」を考えてみましょう。

精神的にこそ、「生きていること」と「死んでいること」は、雲泥の差であることに気付き、意識すべきなのではないでしょうか?

しかし、それを知るのは自分自身です。
他人からは、それこそ「それほどに差はないように」見えるかもしれません。

そういう意味では、変な表現かもしれませんが、「死んだまま生きる」ことすら出来るでしょう。

でも、それでいいんでしょうか?


「生きている」とは、何をもって言えるのでしょうか?


自分にとって「生きている意味」とは、何でしょうか?


「生きている」と実感したことは、何だったでしょうか?


「生きていることは」に続いて出てくる言葉は何ですか?


「生きていること」を楽しいと思った経験を思い出してみてください。


「生きていること」を幸せだと思った経験を思い出してください。


「生きていること」を苦しいと思ったことがありますか?


「生きていること」を悲しいと思ったことがありますか?


そして、

「大好きな自分」って、どんな自分でしょうか?


全ての人が、十分に「生きること」ができますように。。。